アヴァンギャルドアコースティック


UNO
ホーンスピーカー・システム
+アクティブサブウーハー・システム

UNO[受注生産]
希望小売価格 2,100,000円/ペア(税抜2,000,000円)
運搬費/据付費は別途

DUOよりも一回り小さなミッドレンジホーンを搭載したモデルで、高感度ホーンスピーカーならではの軽やかで躍動感溢れる表現を、より一層身近なものとしています。

●周波数特性: 25-220Hz/サブウーハー(SUB225CTRL)、220〜20,000Hz/サテライト
●クロスオーバー周波数:220Hz / 3,500Hz ●許容入力: 50W ●感度: 101dB(1m / 1W)
●インピーダンス: 8Ω ●内蔵パワーアンプ出力: 250W
●外形寸法:W570×D710×H1450(mm)●質量:60kg


標準色6種類(白/銀[上記写真参照]/黒/青/緑/赤)、
又は欧州車の色番号指定(特注: 別途料金)

SUB225CTRL(UNO / DUOのアクティブサブウーハー)
外装仕上げ
標準色(ネクステル仕上げブラック)
メタリックブラック(特注: 別途料金)



 日記:プーランクの『田舎のコンセール』を聴くと思いだす。四月のあの日々。僕は47(しね)を流行させようとしてた。そして最電波というのがなんか俺の立てたスレで暴れててて、なんだこいつは、危険な思想持ってそう、、と変に危機感抱いた。でもレスしてみたら意味不明の即レスで愛が感じられた。その後一緒になって47を使いまくってた。でも、いしかわもがんばってくれたけど結局流行らなかった。今になって検索してみたところ、これが見つかったので[url] 微妙には流行ったのかもしれないけど。あとで、47はなぜ流行らなかったのか冷静になって考えてみたところ、ポケベル世代にしかすんなりと読み込めないんじゃないのかと、根本的な部分で自分に思いこみがあることに気がついた。ポケベルやってた人ならば4は「し」にも「よ」にもなるし7は「せ」にも「な」にも「ね」にもなる…でも47を「しね」だなんて普通は読めない。だからあなたがたは氏ねとダイレクトに煽らずとも47と書いて自己満足に浸っておけばいい。いやそんなことはどうでもよいのだ・・・・最電波は天才児だった。ハナコの中ではかぶとむしを追い求めるまんまの姿でいるらしい。木によじのぼり 気分よく歌っていたら 向こうの木で蜜をすっているクワガタを視力4.5の目でめざとく見つけた。まああああ!!!( ゜∀゜ )とリスみたく綱渡りで高速移動→ つーかまえた♪と陰りのない子供の笑顔でよろこぶ。でも次の瞬間「いくらで売ろうかな」とかほざいている。そんなイメージのようだ。真琴も、「最電波は、愛情表現に、宝物にしてた烏の頭蓋骨をくれるようなタイプだね・・」とか言ってた。ヒットマンの思い出としては「最初に最電波見たときは寄生虫か悪性腫瘍かと思ったよ。あの純粋は俺には毒に見えたのかな。」
 掲示板というのはたかだかBBSなんだけど、そこで暴れまわるというのは、「子どもは皆アヘン中毒である」とJ.コクトーにいわれるように、何か動くものを見つけてはそれに向かってほとばしる動物性と、真っ白な中にどんどん新しいものを生み出していくjoyetyがなければできない。小学校のころ、自転車で新しい道に入るというのが冒険だった。どんどん知らない道を進んでいき、こんなところまできちゃった〜どうしよう。もう5時で大変な気分だった。市内なんだけど。残念ながら最電波は2003年11月ぐらいでいなくなっちゃったけど
(一度は召還した。清明なる者は汚れた空間を嫌い、愉しげなところにしか降りてこない・・雨の岩戸をおしひらくかのよう)、掲示板がおもしろくて仕方ないのがリアルタイムで伝わってきた。僕は子どもに接する機会がないからなつかし新鮮だった。掲示板には特殊な宇宙があるんだぁという感度、ほとばしりのままに書きまくっていくという無秩序さ、いくらでも作れるということそれ自体の発見、最電波のかずかずの書き込みを見ると、そんな無限性を感じていたようでかわいい。純粋無秩序な創造性とはそんなところにあるが、とはいえそれが作品となると、また話は別のようだ。


 【20世紀初頭のアヴァンギャルド芸術】・・・・ブルジョワ階級の保守的な趣味に対する知識階級・芸術家の挑戦。保守的な階層(あるいは大衆)に理解されない芸術を生み出すことが急進的な政治姿勢の表明となる。アヴァンギャルドの一つの表れとして 芸術という制度そのものに対する批判・反抗が試みられる→反芸術[反芸術:Make Sense しない芸術]
 科学は1という目標に向かって収斂される。あらゆる現象は言葉・記号によって抽象化されている。しかし芸術・表現は無限に広がる。クロードドビュッシー・・・・彼は「響き」そのものを重視する新しい表現法や形式を生み出し、それまで作曲する上で決まりとなっていた多くのことがらから西洋音楽を解放した。若いころから音楽以外のさまざまな芸術に深い関心をもち、文学者や画家、彫刻家たちのグループと交際していたドビュッシーは、なかでも象徴派の大詩人として知られるマラルメの家で開かれていた集いには、唯一の音楽家として参加しました。マラルメをはじめ、象徴派の芸術仲間から大きな影響を受けたドビュッシーは、マラルメの詩『牧神の午後』を自由に絵解きした作曲を試み、その結果、暑く物憂い夏の午後をバックに展開する、牧神のさまざまな欲望と夢を音のキャンバスに描いた。その音楽は長調と短調のシステムから自由で、音楽のもつ可能性は無限に広がる。ではなぜ長調や短調なんて決まりがあったのか・・・広げることができたのはドビュッシーの遊戯に見られる感性以外なにものでもない[有機的結合]。星を追い月の光をいつくしみ、どこまでも海を駆ける夢想家でなければただシステムから遊離しただけの脱文学な音楽となっていたろう。結果、[宇宙を音楽埒内に引きとどめられない]
 自分の宇宙を超越する音楽がたくさんある・・・セルゲイ・プロコフィエフ、J.シベリウス、グスタフ・マーラー、L v ベートーベン、W.A.モーツアルト・・・彼らの音楽は聴くほどに、異常に高度な形式と遺伝子的旋律のうちに呑みこまれる。ショスタコは十二音技法ほど無価値なものもないと言っていた。今や作曲のための十二音技法ではなく十二音音楽を楽しむためのものに成り下がっているが。(とはいえシェーンベルクは決してシステマティックにしか作曲のできなかった作曲家ではない。晩年、ハーモニーを叫んだシェーンベルク…、その調性は初期の『浄められた夜』に裸の形で見いだされる。『グレの歌』に漂う叙情感…それはシステムの裏側に息を潜めていた。それは現代新書の心理学者の動機のように、電子的に音楽を再現せんとするオーディオのように)
 自然、宇宙、神の領域たる調性に限界があるとしたらば時空の果て。知っているか!?倍音は宇宙の果てにまで広がるのだYO!。現代に敷衍する∞は爆発にしか思えない、破壊にしか思えないものが多い。ビッグバンの表現とか原始的宇宙の投影らしいが、ブラフマンをアートマンとしてそのまま投影するそのような語法は写実で、それを音素で浴びると燦然としてて恍惚とはする。形式とハーモニーのうちに宇宙を解体したもの。絵画や交響詩のように、アートマンをブラフマンに投影する語法とは反対の仕組み。


 かのような音楽の輪廻がある・・・・音楽史としても大まかに見ると、シェーンベルクが先駆けだったろうけどトータルセリー、機械仕掛けに作曲する音楽、クラスター、etc. 秩序のしがらみなしにどんどん消費化社会のように生み出された。破壊というより新しいものを創りたかったという衝動の表れ。そういう潮流にまた疑問を投げかけるポストモダニズムが現れて土着的な要素を取り入れたミニマル、電子音音楽、癒しの音楽、、
 ん…歴史に名を残すのみでないものは…?。エミールによると歴史は革命とか大騒動とかいうことがなければ興味がないので、温和な政治が行なわれてなにごともない状態のうちに国民の人口がふえ、国が栄えているあいだは歴史はなにも語らない。その国民が自分の国だけでは満足できなくなって、隣りの国の事件にくちばしをいれるか、それとも、自分の国の事件に隣りの国からくちばしをいれられるかしたときに、はじめて歴史は語りはじめる。歴史は、ある国がすでに衰えはじめているときに、それに輝かしい地位をあたえる。わたしたちの歴史はすべて終わりにすべきところではじまっているのだ。たがいに滅ぼしあっている国民についてはわたしたちはひじょうに正確な歴史をもっている。わたしたちに欠けているのは富み栄えていく国民の歴史だ。そういう国民は、十分幸福で、懸命なので、それについては歴史はなにも語ることがないのだ。ゆえにスピーカーにおいても淡い時空に消え行くほどヒューマニスチックでなければ我々に音楽のそのままに安らかな恵みをがうんこちんこまんこっこ。そう。創造する情念の裏に根付くヒューマニズムがこそ確かに宿るものがこそにあるのだ…!。音楽において無秩序の反対は調性だからだ!。破壊衝動は理不尽な社会の枠組みに向けられるものであるが[黒人ロック]、一般的にいって、積み重ねられた秩序を破壊するものはただ破壊することのみに重点が置かれるため、それをまっとうしたら終了。そして空に。徳は財産のように。ふうせんのように。
 さてUNOはアンプジラで鳴らされていた。1980年代に入るとソヴィエトの崩壊とそれによるカタとが引き金に歴史の序列を度外視した引用の音楽・多様性の音楽が生まれた。複数の様式が脈絡なくより合わせにされ蓄積した歴史のエネルギーが色とりどりにホーンから放射される。もうそこは絵画とか想い出とかの世界でホーンの色はブルーで夢みたいだった。ホーンというかラッパ。自らでもって戦後の消費社会を揶揄しているかのようだ[ビュルレスク]。高域と中域がこのラッパから出てくる。真ん中のツイーターからはシンバルが、その上からはトランペット吹かれてる。それぞれに割り当てられているかのように。低域は節度よく鳴っており、ホーンから放射される音とよく馴染み、こだわりを感じさせずにさすらっている。かのやうに調性を保ちつつちつつも、この外貌から出てくる音はなんら狙ってないところがアレアトリー、概してモダニズムへレジスタンスしたアヴァンギャルドってかんじ。





ⓒ2003 tukipien audio reminiscences All Rights Reserved.