SOLILOQUY

ソリロクイは一言でゆうと生涯ケーニヒスベルグの街を離れることもなく、
一定の時刻に一定のコースをきっかりと歩くカントのような音だ。




5.0s モニター SAT5 サテライト 6.2 タワー

5.0 monitor            SAT5            6.2 tower



 このSOLILOQUY(ソリロクイ)という、生目にした感じ いかにもつまらない音を出しそうなスピーカーのことは、丸山無線のこなきじじいのような店員さんが詳しく説明してくれた。率先して業界の内容を教えてくれるも 見解やひきあいはオーバーで、業務服や髪型はいぶかしく、スピーカーが雑然と並べられているあの空間は味も素っ気もなく、色温度の低い蛍光灯が殺風景に拍車をかけていることもあってか概して胡散臭かった。でも物事の皮相以上に内在するものを見る人はそんなもんで、頭でっかちだが口の端に掛けることはなく背景にはイズムが滾っていた。こなきじじいだから頑固な論理があって、その表現がラディカルになるまでのプロセスには解らぬものへの苛立ちがあったように見えた。まるで宗教でいう教条主義だ。ともあれソリロクイは実際に何の変哲もないトーンだけれど、確かによいものだった。創業当初のモニターオーディオはあんな感じだったらしい。モニターオーディオとはある音楽家の作ったメーカーだけれど今のモニターオーディオは名前だけ引き継いでいるものだ、一台一台手にかけていない大量生産の劣悪商品がまかり通っている、日本人の耳は騙しやすく雑誌でよく書いてあれば売れてしまう、よろしくないものをよろしくないと言えないからそうなってゆく、売れるんだからそれでいいとなってゆく。5.0からゴールドリファレンス10やNautilus805に切り替え、僕は広がっているとか美しいとか感じたけれどスピーカーの中心に実が無いことを説いていた。こなきじじいだから金づち頭だがくちのはに掛けることはなく本質を見ていた。表現がラディカルになりがちなのは解らぬものへの苛立ちからそうなっていたようだった。まるで宗教でいう教条主義だ。ともあれソリロクイは確かによかった。偽装ではなく本質的な音だった。創業当初のモニターオーディオもこんな感じだったらしい。でもモニターオーディオとはある音楽家の作ったこじんまりとしたメーカーだったけれど拡大して儲け路線に傾いてからは本質から離れていったようだ。一台一台手にかけていたら大量生産なんてできるはずがなく日本には劣悪商品がまかり通っている、広告費の割合が高すぎる、日本人の耳は騙しやすく雑誌でよく書いてあれば売れてしまう、売れるんだからそれでいいとなっている、よろしくないことをよろしくないと言えないからそうなってしまう、今売れているたいがいのスピーカーには音に実がなくて、綺麗に仕立てているだけなので聴いていたら疲れる、基音に倍音が乗っていない、ローテルはソリロクイを見つけてきちんとしたスピーカーを設計させた、ソリロクイは蛇足を得ておらず本来のスピーカーのとおり立体的に再現できるものだ。このソリロクイならばわざわざ真ん中に立たずとも定位する。わざわざ真ん中で聴かなければならないもののほうがおかしい、本当のスピーカーとはどこにユニットがあるのかわからないもので、トールボーイでも下から低音で上から高音が聞こえるなんてこともなく一体になって聞こえるのが普通だ、本当なら2WAYでいい、トールボーイにしなくてもいい、スタンドなんかなんでもいい、スピーカーがあればその上に置いておけばいい、偽のスピーカーだから苦労しなければならない、楽して聴けない、すぐに疲れる、出回っているオーディオの質が悪いのだからCD買わずにレンタルで済ましてしまう、音楽と向き合う文化がいつまでたっても育たない、自業自得。こなきじじいは頭でっかちだからファンダメンタルな言いぶりで説いていた。抜本的な表現は主張内容が皮相価値の説得力に抵触しているという立場からきているようだった。まるで「宗教とは信じきることである」とする態度のようだ。この言葉は決して正当化ではない。正当化か否かを見抜けないのは絶対音感が欠けているからだ。それはさておきソリロクイは確かによかった。特に5.0をすごく好きになった。ここで催眠術て反応するのって(小心の部分) ちがうかなぁ、俺は知性的だから営業トークには騙されねぇぜ みたいな。雪で転んだ猫がキョロキョロ周りを伺う あのかわいい動作を連想してしまうんだ、な ぼ、ぼ、ぼぼくは、お、お、おにぎりが好きなんだな、な、<(・)> ∀<(・)> チャウチャウ? とにもかくにも、このソリロクイは本物の音作りをしていて聞き飽きない。装飾がないからつまらないのかなぁ、と思っていた自分は恍惚を求めすぎていた。ローテルの媚のない実力もあってか耳に倦怠感がない。創業当初のモニターオーディオもあんな感じだったようだ。モニターオーディオとはある音楽家の作ったメーカーだけれど儲け路線に傾いて名前だけ引き継いでいるモニターオーディオは受け入れることが難しいようだ。浮ついていて中身のない音だから結局疲れてとっかえひっかえしてしまう、B&WはNautilusなんてものを作っていてイギリスを追い出されたから騙しやすい日本人やAVのアメリカをターゲットにしている、悪い音を悪いと思えないからそうなってゆく。でももしそれが本当だったなら、自分が今までに接したオーディオの大半は似非宗教のようにシェアが第一に来ている本質的な実りのさもしい代物で、おもちゃ的な楽しみ方をしていたことになる。そこまでひどくはないとしても本質の実りをSPの外延のほうに拡散させる場合は量子的に一定であるそれはSPの中にはなくなってしまう。とはいえ本質はひとつなのでモニター調とは普遍的なものであるが(集中的思考)、オーディオでの表現のさせ方は千差万様なので一方は芸術性にも波及する可能性を秘めている(拡散的思考)。日本人の耳は騙されやすいという特質も、よくよく考えると蛙飛び込む水の音を捉える平均律的な感性に基づいているもので、無化されうるものではないかな。どこに音楽を感じ取るかは絶對精神であるゆえ。
 詐欺とはほとんどの場合、悪意も虚栄心も欺瞞する動機もなく、ただ見えてないところから発生しているものかもしれない。疑うことに一辺倒にならずに心理的な不協和のみを疑っていればよいことにもふと気がついた。長いこと聞いていたから話がループしてまた立ち返り、その間に他の客がたびたびその密室に入ってくるも、一聴して地味な本質を見極められるはずもなく、また出てゆく。
 グランドピアノを鳴らせば左右に鍵盤が拡がり、チェロを鳴らせば上下に弦が立ち上がり、立体的に目に見える。これこそスピーカーの実力的な部分かもしれない。一方で、ホールではいつも好きな楽曲が演奏されてるわけでもないから欲求不満にもオーディオに圧倒的解像力や場の空気や芸術的味わいまでもが求められることになるけど現実的には難しい問題かな。イメージは膨らますほど本体から乖離してしまう性質があるから。



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