Stereo Sound


左:JBL DD66000 右:KEF Blade

『Stereo Sound』の読書感想文 なまえ:犬介
2025年推敲


ハイエンドの製品になるほど哲学があったり凄いことやってるので、じかに取材をされた記事は読み物としていける。百人の技術者がいれば百通りの考えがある。ピュアオーディオは芸術作品。オーディオ評論家は哲学者のようで、造詣が深い。自分が今から買うものならインターネットのレビューで十分。BADな部分も含め実使用者が正直に感想を述べられていると人柱としてのありがたい情報になる。しかしステレオサウンドに掲載されるレベルの製品は、買いませんので、故・菅野沖彦先生おっしゃってみえたとおり、高級料理や旅行雑誌を写真や文芸を見て嗜むかのようにハイエンドオーディオ製品を嗜んでいただけたらという方向性で紹介されている。なので印刷がとてもきれい。本屋で陳列してある雑誌の中でステレオサウンドほど高級紙を使われた雑誌は少ない。そのかわり重いけど。
輸入代理店やメーカーから広告費を頂戴しているからなかなか不足感がある箇所があっても貶せない。所有者の心象を害する可能性がある。なのでリモコンのチープさだとか、見ればわかるデザインの部分だとか、50周年記念なのに少しユーザーフレンドリーすぎる製品にしてしまったのではないか(パラゴンみたいなのを期待していたのに)、などと音以外の部分を落とす。「リモコンは気にしない」とか「デザイン自分は好き」だとか「ユーザーフレンドリーなお陰で自分にも買える」だとか思えるし、売れ行きに影響しないので。提灯記事だとかいう批判があるけど、そういう事情を汲んで読めばいい。それが旅行誌だったら許せるのに、なにが問題なのかがわからない。

ステレオサウンドが一番オーディオ誌で見応えがあるのだけど、やはり趣味はこうでないといけないという道標になる。「必ずしも物質的には満たされてなくても良い」と言える趣味でないと趣味とは言わない。人は財布の中にお金が無かった頃は自分の好きな事にしか投資しなかったけどお金持ちになると周りの人や同級生がなにに投資しているかを窺い知って体面を意識したお金の使い方をする。結果お金持ちになっても必ずしも幸せに直結しないらしい。でも見栄えではなく趣味に徹することができるのならいつかお金持ちになっても幸せを拡大することができる。体面より重要な何かを自分が感じ取っているのであればそれが可能。

おぎゃーと産まれたときから動物には好奇心がある。それが満たされきることはないだろう。それは脳が年老いて終わってきたとき。本当にオーディオが好きなら見たり触っているだけで時間が過ぎるもの。妄想していてもいい。妄想はお金かからない最高の趣味だ。ステレオサウンドに掲載されるスピーカーとかアンプは妄想で楽しむもの。買おうとするとピュアオーディオは高い。それはボッタクリではない、需給のバランス。オーディオはモニターの方向性ならfレンジとDレンジとバランスさえよければいいので安物で済むけど、それより低ノイズ高解像度で歪みとか奇数倍音なしの恍惚な美音を醸すモデルになると設計製造にお金がかかる。ヴォイシングに時間がかかる。
そんなピュアオーディオの世界を堪能するには、都会の人はイベントとか行けばいいけど、田舎の人はステレオサウンド読んでるだけで楽しめちゃうぐらいでないと。そもそもそれで満足しないと金銭的に間に合わない。ステレオサウンドは日本に輸入される世界中のモデルが掲載されるけど年に何百モデル発売されるのか。年収がヘッジファンドの幹部並にあっても恐らく足りない。世の中5万円を超えるご祝儀袋もあるのだけど、それを使ってる住民でも。

座禅や瞑想をする坊さんは背内側前頭前野が通常の人とくらべ分厚く、実際頭でっかちなようだが、飽きずによくやるなと思えることを好きでやってるから厚くなる。好きなことを継続すると少なくともボケないだろう。見栄えを追求すると人はそのように称賛してくれないから腐るだろう。
とはいえ相手は生物じゃなくて静物だから、子供とか雀ほどは面白くないだろう。自分も子供ほしかったなぁ。


左のステレオサウンドは容量を半分に減らしたもの
ステレオサウンドは結構分厚くてスペースを取る。薄地でピンと張っていて滑らかな紙。マンガなどの単色刷りの紙に較べて比重が高くて重い。なので僕は分解し、選別して、バインダーに綴じてる。

ステレオサウンドは背表紙の接着剤の強度に節度があるから、うまく分解出来る。

次にバインダーに挟むために穴開け機で穴開ける。僕は26穴のバインダーに綴じ込めてあるけどゲージパンチを使って全部に穴開けするのは大変だった。
2つ穴(80mmピッチ)のバインダーで十分。なんなら穴あけていないものも放置中。B5の段ボールに入れておけばいい。

cf. KOKUYO、キングジム、カール事務器、maruman、2穴パンチ、リングファイル


C.O.T.Yの選考談話。画面右は受賞機のVictor SX-9000。
解体後のステレオサウンド
自分は会社の裁断機で背表紙を切った

このビクターのスピーカーはまだ聞いた事がない。
読んで写真眺めて堪能。



ステレオサウンドのページ数は600ページぐらい。サイズはB5。
冊子の厚みは徐々に減ってきている。
僕が初めて買った1995年 WINTER号の3/4ぐらいかな。
価格は2012年の時点で2300円。
写真雑誌だと思って買えば安い。

カラー印刷の画質は年を追うごとに綺麗になっている。写真屋でプリントしたみたいに綺麗。最高クラスの紙を使われている。

ベストバリューの選考委員の数は年々減ってきて、昔のステレオサウンドを読むと懐かしい印象すらあります。選考するメンバーが変わり、順位が変動するのもまたヒューマンで面白いことです。
昨年まで一位だったSONYのSCD-XA5400ESが二位に後退し、marantzのSA-15S2が一位になってるなど。(共に2008年の発売)

また、上杉氏は昨年2011年に亡くなられました。よってその年の冬号は上杉製作所の新作がBest Valueの対象になり、その結果も面白かった。

SSGPの選考委員にも変動がありましたがステレオサウンドの精神を受け継いでいる面々で良かった。




別冊STEREO SOUND 往年の真空管アンプ大研究 保存版
STEREO SOUND 往年の真空管アンプ大研究 (別冊ステレオサウンド)
定価2800円。広告の量が少なく、通常版のステレオサウンドより軽量化されていた。そのかわり定価は割り増し。〔保存版〕と銘打たれてる。




「評論と広告は違う」 なまえ:犬介
ステレオサウンドはメーカーとの癒着が疑われると勘ぐってる人もいる。菅野先生はMcIntoshの輸入に関わっていて自分に利益がある立場にいるのに☆☆☆を投じるだとか。人間関係の質的なものを度外視して「癒着」と言えば全ては「癒着」になる。お金の話になると人は黙っちゃ居ないから上杉先生は自分の利益に関わる製品は選考から除外していた。
しかし、そもそもステレオサウンドはオーディオを買うための雑誌ではない。なんどもいうけど。買うなら『Stereo』とか『AudioAccessory』とか『サウンドレコパル』。人と人との付き合いまで癒着にされていたら評者は機種自体にしか接したらいけない事になる。でも自分含むネットレビューのほとんどはそうなのでネットを見れば済む事である。人の感想がむかつくとか人の意見が信用できないなら測定値で選べば良い。人間の聴覚よりヘボいが、測定器を使えば(現象の密度は度外視された)周波数特性なら精確に把握できるであろう。cf: デノン DRA-900H-SP

高級な骨董芸術になると創造した人を知ることは重要になってくる。菅野さんはレビューを書く際にはそれを創った人のことを想って書いているという。人柄を見ているからより正しく批評できる側面もあるし、被造物には創造者の個性そのものが出てくるものである。
評論家が要らないとすればオーディオは趣味というより単なる機材で、音さえ良ければ良いわけである。人間の宗教性を無視するのであればそれでも良い。

なぜ評者と作者(メーカー)との関わりが重要か。現代美術の評論家であるサム・ハンター氏は「何を表現しているのかわからない作品をどのように優れた作品であると認めるか」との問いに『創造者のことを優れた芸術家だと信じるかどうかが大切』と答える(STEREO SOUND No.165 2007 WINTER - P.489)。新しい美術作品を発掘するにもベンダーはまず作った人を見る。レコード演奏家訪問に出ていた五辻さんという方もそういうスタンスで、それがやはり確実であり堅実な方法なのだろう。たぶん機関投資家がグロースの株を買うときもそうなんだろう。株主総会で直に会ってお話をする。IRや会社紹介には出てこない社長のビジョンを見る。そこで買うか見送るかを決める。出席者1名の株主総会もあるみたい。普通の投資家はそこまでやってないんだな。
五辻さんは「創造者の表現の領域には踏み込まない。その代わり自分の解釈で使わせていただく」という。
エンジニアは調香師のようなもの。『SS Interview』〔メーカーの人へのインタビュー〕を読めばより深くオーディオ製品についての造詣が得られる。『SS Interview』とか『メーカー訪問記』とか『新鋭ブランド』の特集を読んで僕はヤフオクで買える機種ばかりを追いかけるよりはエンジニアの話を聴くことの方が面白いことに気づいた。






『レコード演奏家訪問』の読書感想文 なまえ:犬介

今年2011年、世界の人口が70億人を突破したけど、オーディオの世界にもいろんな人がいて、いろんな音を出されてる。単に購買意欲を満たしてついでに自己顕示も満たして趣味だとか思ってる人も多いけど、いや、普通でござりますけど、『レコード演奏家訪問』を読むとそうでもないな、と思える時があります。いろいろ個性のある人たちが出てきて、顔の見えないネットじゃ味わえない優しい談笑をされていて、評論家の菅野先生は彼ら個人の中に深められた哲学を見聞されています。「レコード音楽の再生は忠実性を追求しつつ、美しさを追求することに意義があると考える」(菅野沖彦:新レコード演奏家論)という筋の通った誌面に自分の姿勢が正されます。
『レコード演奏家訪問』は出て来る人の意識のレベルがみな高い。自分の高校の英語の先生も出たことあるらしい。
対話形式だと筆者が一人で書く文章より抑揚とか奥行きが出る。百人いれば百通りの生き方があり、人生経験があり、論点や視点や価値観がある。登場するのが毎回同一人物ならばいつかは話も陳腐化するが、日本人口1.3億人ってのはすごい事、それだけ個性的なオーディオファイルが世の中に沢山いたからこそ成り立った企画なのだと思う。一方の菅野さんは相槌を打つだけ。菅野さん自身の話はワンパターン化していたけど相手を独白させないために必要な役割を担っていた。うまく消えていて演奏家を引き立ててる印象だった。



「まとめ」
評論と広告は違う。評論家とは小林秀雄によれば創造の役割を担っている。また上に書いたNo.165号の『レコード演奏家訪問』の話を応用すれば世に知られていない芸術を探し出す事とその芸術家を信じる事の役割も担っているのだろう。
ステレオサウンドはオーディオのどちらかというと「精神的な」深さが知れる雑誌だ。個人でオーディオなんて打ち込んでいても「物欲」でしかなくなってくる。オーディオは精神だと思って欲しい。もう少し趣味性に踏み込んで欲しいと思う。オーディオを博物館的な視点で眺めるのもあり。メーカーの国籍が違えば音響哲学も違う。科学といえど一筋縄にはいかない。SSGPの選考談話は盆栽とか骨董の趣味のように洒脱したオーディオの趣味のありようを示してるかのよう。『開運!なんでも鑑定団』と同じである。『レコード演奏家訪問』の対話は高尚すぎて人によってはつまらないと思う。笑いの意味を嘲笑だと捉えててそれ以外想像つかない時期には円熟した方々の談笑などわからない。笑いの対象を求める笑いは裏を返せば自己肯定感の低さ。学校の勉強が出来なかったことを未だに引きずってる。ストレス社会と言われて久しいが、ステレオサウンドが悪く言われると、そういった現代人の特質が見えて少し悲しいでござる。お寺とか神社に参拝してインナーチャイルドを癒やしましょう。


追記・・・オーディオファンには機械好きの人間嫌いな人が多いと思う。(根拠…Amazonにて、オーディオ製品のレビューには「このレビューが参考になった」の投票率が低い。マンガとか食品とか傘とか線香には「このレビューが参考になった」の投票率が高い。オーディオ製品でも1,000円ぐらいの安いものには「参考になった」と投票が入る。高級品になると途端に他者の浅い意見に厳しくなる)
たしかに趣味の有りようにも高尚なものと程度の低いものがあるけれど、悪貨は良貨を駆逐するとも言うように、悪い部分しか見れない者は良いものをまで滅ぼしてしまうのが世の常である。悪いものを悪く言うのは分相応の評価だけど、良いものを悪く言うのは悪口。世の中全体的に悪口が多い。(逆にサイコパスのような人物のことは悪く言わない。タゲにされると怖いから。むしろ良いところを見つけたら良い印象やフォローが入ったりする。心理学でなんて言ったっけ。YouTubeでも輩系にフォローのコメントが入っていたりして違和感。「演技でやっているから優しい」らしい。演技の可能性・・・1%ぐらいはあると思う。違和感。)