TEAC A-BX10




このアンプは、デンマークの聴かせ方と日本的な精確さが、融合しておるけん。
解像はPMA-2000とかに比べるとかなり遜色あるけど、A-BX10には薄型ながらのよさもあって、硬調ながらも色気はよく出ている。ボリュームノブの回し心地など、高級感あり。そのへんA-1Dとは違う。出力80W+80W(8Ω)、質量は15kgで意外と重い。中身の一部はPRIMAREのバランス構成デュアルモノーラル機Model301LのOEMと思われ。こちらは4Ωで160W+160Wなのでだいぶ違うかもしれないけど。A-1Dのほうは若々しくきらめいてるのだけど、A-BX10はさすがに落ち着いたヨーロピアン調を奏でる。



珍しくバランスに対応している。
ということで左はヨーロピアンの傾向 右は国産の傾向
ヨーロピアンはミュトスで音楽を聴かせる。音楽の聴かせ方がうまい。FMアコースティックは聴いていると心地よくなる。感覚をしあわせにするギミックでもあるんだろうか。 国産はロゴス的で、演奏家の内面性を浮き彫りにする再現をする。録音の音がそのままに伝えられる。素材の味が活かされている。
marantzでいうとPM-15S1には、キリスト教的なクリアネスがある。 PM-95には、まだファジィなところがある。絶対的でない自然感。
解像度は高くないけど、空気は心地よい。食べ物はいただきますと言って食べるとおいしい。 A-BX10はお口直しのデザートのようにあっさりとしたところも持ち合せている。
音楽も崇拝するとその強度に比例した感動が得られる。ウィーンには音楽への敬意があるからこそウイーンアコースティック。 バランスとフェーズがたいせつにされていて、2ウェイ的まとまりと、3ウェイ的つながりがある。輝きを保った眼で見れば、音楽は生命的で抑揚に観応する。でも辛い日もある。
半導体工業の世界の対比
「マイクロプロセッサー」は、マルチ人間的な機能を果たすものでアメリカが圧倒的に優れている。
日本は「メモリー」が強い。実に画一的なもので、規格化された単純作業の連続で作られている。日本は応用面が得意なようでその性格が出ている。マイクロプロセッサー系は日本がオリジンといわれるものはほぼ皆無なようで、それを「自分で考える自由のない教育面が出ている」と酷評する人もいるが、ではゆとり教育は成功したのだろうか?ゆとり教育は失敗だったとゆとりなく判断を下す人は、案外、かつて次の世代にマイクロプロセッサー系の思考を求めていた当人ではないのかな。日本人は群れをなして行動するので経済戦争には勝った。ゆえに経済が破綻することを恐れてゆとりを批判しているに過ぎないのではないのかな。まぁ、マイクロコントローラーには日本独自の製品も探せばあったようだけど。
厳正で画一的な教育の中からもそれを踏まえた非教科書的な才能を発揮する人たちがいて、それはただのゆとり自由人よりも天才的だという現れにもなる。この国には論理的天才は実に多い。マルクスの理解度とか解釈は本場よりも高度らしい。常に実用性を絡めた知識しか須いえなくなる現代病も多いけど。(メーカーが病気のときは音もそういう風になってるのかもしれない…というのは下種の勘繰りか)
僕はルソー派で、ゆとり教育を賛成していたのだけど、ほんの短い時期でもこの日本でそんな教育がなされていたことは、よかったなぁと涙に思う。いろんな教育を受けた人が社会に出て来ることになるのだから失敗で終わらすべからず、この先の楽しみにすべきことだと思う。アメリカ的な創造性と、はぐれ者、日本的な柔順・素直な良さと、お役所的性格、様々なパーソナリティの兼ね合いが、おもしろいことになるのではないかな?蛍光灯でもWARMとかNATURALとかCLEAR、ケルビンの違うものを組み合わせれば色域が広がるように。(相殺もし合うがね)
ちなみにルソーの社会契約論の理想:「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」は、日本の天皇制にあると分析できるようだ。終戦の1年位前、アメリカより先に核爆弾の完成が見えていた。そこで軍部は、昭和天皇に使用許可をお願いしたところ、「自分は、それに反対である」と言われたようだ。その理由:「数カ国がその新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。それでは 人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。」 そんな美徳による統治国家に、ルソーは憧れていた。戦前の日本を見ていればうれしかっただろうね。


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