■掲示板に戻る■ 検索 全部 1- 最新50
La Rochefoucauld ''Maxime''
1 名前:ナナシンクロニシティ 2007/03/28 23:18 [URL]
 
"Nos vertus ne sont plus souvent que des vices deguises."
「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。」

ラ・ロッシュフコーは確かにペシミストで、失明しても人間のあらわな姿を見ることをやめなかった。その眼を持つと自分も不幸になることにはならないだろうか。彼とは全く正反対の気質から説いた、アランの楽観主義を引用して考察。
彼によると、不幸な予言は「信じないでいることは、はじめはやさしいが、やがてむずかしくなる」ものだが、この物の見方によれば、偽装も「気にしないでいることは、はじめはやさしいが、やがてむずかしくなる」ことになり「『気にしないでいられるというのなら、なぜ美名のもとにひそむ打算や自己愛を暴いた見識瞥に嗜もうとするのでしょうか。気にしない人はもとより気にならないというのに。』ということで偽装と化すマクシムから抜け出せない罠がつくられる。」と続くだろう。(アラン「幸福論」目次番号25『予言』より)
たしかに彼の眼によって見せかけの真実の裏、本当の姿というタブーを気にしないでいることができないようになることはあるにはあるが、それは通常、タブーを知りたいというビュルレスクな願望の表れで、その願望は不幸を生まないだろう。耐性も得られる。
アランは「『われわれはいつでも、他人の不幸に耐えられるだけのじゅうぶんな力をもっている』とは半分しか真実ではない。もっとずっと注目に値することは、わたしたちはいつでも自分自身の不幸に耐えるだけのじゅうぶんな力を持っているということだ。死ぬほうがましかも知れぬ状況においてもたいていの人はできる限り生きる。」と分析している。(目次番号59『他人の不幸』より)
アランの幸福論は幸福を暴くような記述が為されている。不幸な人が見逃しがちなプラスの側面を暴くやりかたはラ・ロッシュフコーのそれとは逆だ。
アランが言うように微笑めば、不幸な人があまりにもやろうとしない滑稽な考えをしようと試みれば、あらゆる種類の不機嫌を忘却の中へ投げ捨ててしまえば、また、いらだちを維持するのに適した固い姿勢や、不幸なひとがあまりにもやろうとする自分の不幸の倍化、自分の不機嫌を是認してその正当性を断乎として請合うことをやめれば、箴言集はまず生まれなかったであろうが、しかしこの箴言集は彼のシニカルな苦悩の産物でもある。エセモラリストのシニカルを装った文学ではない。たとえば人生を暗くする親切、陰鬱ほかならない親切というものがある。人は一般にこれを憐憫と呼んでいるが、たしかにこれは人生の禍いの一つだ。でも文芸には悲劇のもつカタルシス構造があって、偽装された悪徳もまた美しい。一つ一つサロンで辛辣に奏でれば、暗黙も次第に明るみを帯びてゆく。もとより文芸の遊びを真に受けて哲学の応戦をやっててはいけない。ビュルレスクな面白みを、面白がるところにマクシムの威力が発揮されるというもの。
またかの厭世は、社会を頽廃させる類のものでもない。血が多いか少ないかが躁鬱病の原因だと突き止めた心理学教授の研究成果を信用して考えるならば(目次番号3『悲しいマリー』)、彼の苦悩は彼自身のもので、われわれには体質的に関係ない。冒頭にも神の恩寵に授かられている人には関係のない物事なのです、と断りがあることは、やや見落としがちな観点かな。

18/496k

名前: メール:
メッセージ:
URL:
 sagestay等幅upパスワード:

- Flash CGI/Mini Thread Version 3.31β -