
認知ウェブ=表層的領域。文化や社会に(受動的また他動的に)教育されてきた意識形態。文化に教育されたことからズレた行為をしても認知的に不協和を生じるのみでDNAとか免疫系とか無意識などの根源的な領域でタブーを感じているわけではない。 超自我=フロイトの精神分析理論の主要概念。道徳規範を命令する両親の役割を受け継いで,自我およびイドに対して道徳的な監察,命令,裁き,刑罰などを行うとされる。いわゆる〈良心〉に相当。 (百科事典マイペディア) この違いはたとえば _,,..,,,,_ モシャ (( ./ ・ω・ヽ )) (( l , ', ´l モシャ 、、、、、、、`'ー---‐´jpgjpgjpgjpgjpgjpgjpgjpgjpgjpg 見てください、この生き物。かわいいですね。 この子はjpgを主食としていますが、現在jpgの激減により絶滅の危機に追いやられています。 認知ウェブに於いては、この生き物が絶滅の危機に追いやられているからjpgを温存することが必要であると文化に教育されているから、環境破壊などそれに反することに荷担すると、形成されてきた認知ウェブとのズレを生じ、不愉快を感じる仕組みである。 超自我に於いては、たとえばこのかわいい動物をついつい虐待した場合、文化に教えられなくともDNAや免疫系の領域※でタブーを感じたり無意識の領域で良心の呵責が生じるような仕組みである。jpgの激減により絶滅の危機に追いやられていると教えられているからではなく、この小動物が食べ物がなくてかわいそうだと心が痛む具合です。原罪でも同じ仕組みかと思います。 ここで注意することは、文化では虐待=悪いことと表層的に定義されているけど、生粋の精神の状態では定義如何に関わりないもので、虐待しても良心の呵責を感じない人もいるし、正直な心の表れとしてむしろ快楽の方が大きい人もいるということです。 ※タイプA(心臓病・脳卒中)、タイプC(癌になりやすい)、NK細胞、精神神経免疫学などから。 また、認知的不協和が良心の呵責のすべてだと考え、超自我の存在を断固として認めない人も、いるにはいる。超自我・倫理というものは存在してはならない疑似科学の領域らしい。でも心理学の一般論としてはズレる。どちらが正しいのかは知らない。 |