− 宗教とは −

宗教の本質は、感情と思想から絶對的本質をつかむことにあり、また絶對的本質の表象を現前させるというところにある。 そしてこの點に、この超越において自分の特殊性を忘却することと、この意味における行為、すなわち絶對的本質との関係から行為するということが必然的に結びついている。
※宗教は絶對者の表象の形における把握であり、哲学は絶對者の概念による把握であるというのは、ヘーゲルの終始一貫した考えである。

神の奉仕(Gottedienst)は、思想と感情とから神をつかむ我々の態度〔すなわち宗教〕の特定の形態である。すなわち、それによって個人は神との合一を成就しようとし、またこの合一の意識と確かめとを得ようと努める。つまり、個人は自分の意志と神の意志とのこの一致を自分の現實生活の心情と行為の仕方とによって証明しなければならない。(ヘーゲル 『哲学入門』)




− 宗教とカルト −

何に権威を置いているかによる。何を信じているか。ありえないアホらしい話を信じるか。ありえる話を一般性に迎合せずに信じるか。そして真理にたいしてどう格付けをしているか。
霊性は信仰心と密接な関係がある。霊性の説明は難しく、プラーナの形質とでもいうしかない。言語指標では高低は表せないもので、たとえ世界平和を祈っていようが霊性が高いとはいえない。たとえすべての人を愛していようが高いとはいえない。もちろん聖人においてはそれは必然となるが。霊性の低い信仰をもっている人に祈られて足が引っ張られるというようなことも往々にしてある。


− 無意識領域 −

部族的無意識には入ることできても普遍的無意識に到底は入れない信仰をもったものがカルト。部族的無意識から普遍的無意識に入れる内容ならカルトじゃない。また霊感があればその集合的無意識が雲のようなものだと信じることができる。そしてこれは普遍的な解釈ね。(ちなみに超能力というのは集合的無意識に左右する。懐疑論者の信念が目に見えぬ作用をもたらして被験者の超能力の発揮を抑圧してしまう。だから超能力の実験では懐疑論者が近傍にいないこと、実験が友好的雰囲気の中で行われることなどが常識になっている。まぁ超能力に憧れたり検証の材料にしてる時点で霊性は2流だけど。)
最近は気配読める人間が減ってきたらしい。そういう映画が流行らないから。現代オーディオでも「空気感」は絶対コストとの相談になる。素粒子的領域。アナログ→デジタル化で損失される一番でかい要素(音楽性も)。先進的になるほど失われるものも多いってことを忘れるな。それと宗教板に出かけていたけど霊感(高いレベルの感応力)のある奴は一人もいなかった。人は初めから決まりきったような結論ばかりを求めているんじゃないのだろぅか(?)(?)


− 信仰 −

悪霊は自身を悪霊だとは思っていない。聖霊だと思っている。また他者をそう批判して自己を聖霊だとするものもいる。信仰としてすべてを託す宗教は、賭けであり冒険である。


− 気の段階 −

心が神に同調すれば、神気に覆われる。心には実体のないものがあるから、お互いが干渉すれば辺りが「気」に充満する。心が仏に近づけば、仏とも感応できる。それがもっと仏の心に近づければ、「光」を発するようになる。燃えるかと思うほどに。でも、ほんとうに神・仏なのかな。それを判断するのが漏尽通になる。外面を彩るではなく内側から輝くものを尊ぶのが、日本人のよい感性です。


− 魔に誘われて −

ある日突然に、という霊能や超能力はまがいものが多い。切り離した方がいい。


− 魂の格 −

幸福のためには必要なことがたくさんある。
なにを必要とするか。
二言目に出てくるものは魂の格をあらわす。
A:社会的に満たされている人は社会的地位がどうこうなどと口をつかない。主に忘れている。
B:自然性が不健全な観念のもつ力学的呪縛にスポイルされていない人は遊びにつれていこうとする。
C:カルトに毒された人は世の中の人が「霊的には」不幸でなければ自身の幸福が成り立たない。
D:まともでない勉強をしている人によれば人はマイナスの波動で引き寄せあい傷を舐めあい楽なほうに逃れ神と契約を結ばず重大なカルマを犯しているという真実に気づかない姿…


− 浮遊体 −

宙に浮かぶ人に力を加える。すると動いていく。しかしそのベクトルはその心次第。水沈する人を救い上げるのは、湖ならいいけど、泥沼だと困難。