,._., 。o(僕は世界で最高に麗しい血を持ったユダヤ人や日本人の、その中でも特別に霊的感性に優れた人たちに紡がれてきた信仰世界を、歴史的に類を見ない唯物科学主義万能世界の、その中でも霊的感性に最も疎い無神論者たちに浸透させようとしている。これほどの難題はない。これは神(あるいはサタン)が僕に与えた試練だろうか。口先だけ優れていながらも何も味わえない無神論者に実在する世界を肯定させるのは不可能とも思える、しかし不可能ではない、難 し い か ら こ そ 困 難 な の だ ! できるんじゃないかと内心では思えているので余計にもどかしい。ジュリエットはもどかしかった。「ロミオロミオ、なんであなたはそんなにもロミオなの・・・」 そうなったらもう革命をレボリューションするしかないのだ!!)
 そんなことはどうでもよい。どうでもよくなった。肯定させる必要なんてなかったのだ考えてみると。重要なのはキリストの思想の集大成として名高いものに『山上の垂訓』と呼ばれるものがある。霊性が対応しないとこのとおりに受け入れるのは難しいが、感性濁らされている人間にとってはそれ以前に理解できないことだ。ゆえに原理主義にも陥る。馬鹿が触れても触れられず、凡人が触れると廃人化する可能性があり0.25KB/10*10、秀才が触れれば人生の糧になり、天才が触れれば宇宙の仕組みが見える。それが宗教なのである。絶対音感のない凡人は精神的な観応力や抽象的なバランス感覚に弱い。


 人間は絶對精神を理解しない。ある絶對精神を、絶對精神のない者が批判することは冒涜になる。絶對精神ではない絶對精神を絶對精神でない絶對精神で批判すると、原理主義のような殺し合いが始まる。イエスもブッダも悪と云うものを絶對精神からの乖離とする点では共通しているが、イスラエルが聖地だというのは絶對精神であるわけではない。「絶対的本質は我々の純粋意識の中に現れるものであり、純粋意識の中で我々に啓示される。この絶対的本質についての知識は、純粋意識によって我々の中で媒介されたものであるから、我々に直接的である。またそのかぎり、それは信仰と呼ばれることができる。」(ヘーゲル)
 しかし絶對という言葉それ自体が原理主義用語に捉えられることもある。では絶對音楽とはなんのことになるのだろうか。

 人々はキリストには奇跡しか求めなくなった。神は洗脳によって得られるものではなく、悟りは他人に開いてもらうものではないのに。目に見える病気は医学で治すのがよいが、精神にメスを入れるのは宗教、精神に作用するのは霊気。哲学や宗教の問題もまた、哲学や宗教でしか解決できないものなのである。
 霊体を治癒する神仏の光まばゆい力、高次にったものの力。キリストは自分の肉だといってパン[象徴物]を与えた。それを頂いた人間は悪心に駆られにくくなった。キリストは十字架に架けられても最後まで人を裁くことはなかった。憎しみまで覆い返した。怨みは、怨み返さないことによって消滅するという仏道にも通じるものがある[かさぶた]。癒されていない者は人を癒しのない異世界へと巻き添えにする。巻き添えにされる前にキリストを信仰すると自分の霊は導かれ、癒される。サタニズムが遠のけば進化という慣性に乗じて霊性が高まっていく。特に特別なものを信仰しているわけではなければあらゆるものがくる。高級なものから低級なものまで[入れ替わり立ち替わり]

 この世にオカルトや神はないという聡明さがある一方で、オカルト的な働きをするエクスパタイズがある(作曲とかも) 知能指数・聡明さは脳の容量にはあまり関係ないがEQ・エクスパタイズは脳の容量に比例するようだ。
 音楽が感性なら宗教は人性。宗教とは音楽のように紡びかれたものなので、どれも同じ共通のコードから発生するもそれぞれのメロディーは違う。その説明が本質的であると知るのは知的音感だが、これがなければ誤謬に陥る。また、絶対音感のある人は正しいことを正しいと知っているので、五感で宗教を知れば廉直に歩みだすことができる。絶対音感のある人はたいがい知的音感も備わっている。
 小林秀雄の『モオツアルト』は素晴らしい。天才たちの世界がかいまみえる。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るということがしばしば起こるんだろう。世界は平均律化していく。ライトノベルやイージーリスニングが溢れる。ライトノベルやイージーリスニングを馬鹿にしているわけではない。人間は自分の理解を超えたものは欺瞞として無化しなければならない。その卑しい素性が嫌いなのだ。音感は素養によるもの。絶対音感は証明出来ることだが倫理の音感となると難しいだろう。ゆえに倫理は無化される傾向にある[末法]。

 修行はA10神経を賦活する。快楽はA10神経を壊疽らせる。強化と弱化の違い。勉強すればよい職業に就けるし、楽すればあとでその分苦労しなければならない。慈悲心を育めば人のことも幸せにできるけど、餓鬼のように人にあたればその分自分が苦しむことになる。すべて因果の法則。
 社会を丸く治める和の心の裏には誇り高き忍耐と広義の愛に基づく慈悲がされている
(ふと思ったけど、易学の時代と違って今の占いには、君を占うふりして人類への願望を訴えかけようとする鬼気に滾っているのかもしれない)。平和への希求を原点にどんどん世界は調和に向かう。調和の喜びは破壊する喜びとは種類が違い、深く、末長く続く。永遠とまで感じる人は、それだけのことを為してきた。それだけの善根がある。