apres un long silence


− 問題 −


現実の反意語を次の中から選びなさい
1, 空想
2, 仮想
3, 理想
4, 非現実


− 宗教について −


 宗教とは虚実であり礼拝は現実逃避であると言われる。都合のいい嘘、迷惑行為、末期癌患者に心の安定をもたらしたアガリクスと同種のものであると。しかし...
 そもそも現実とはなんなのだろう。子供がゲームをすることは現実逃避なのだろうか。するべきことをしないという意味の現実逃避ならあるが、そもそも「現実」とはなんなのか。人間は音を音そのものの形質で聞くことはできない。光そのものを見ることはできない。網膜・鼓膜から先は有髄神経による解釈である。音と光だけではない。五感のすべては現実そのものではない。我々は何をするにしても脳内で生きているに過ぎない。一世代前はゲームをすることは非現実的な世界に没頭をするとのことで現実逃避とされてきた。でもインターネットが普及するにつれて人々の知識は習俗的ではなくなり、また即物的になり、そのようなレッテルは古い認識になりつつある。良かれ悪しかれ。宗教はどうかというと、そのファンダメンタルな考えに基づけば現実逃避ではない。霊感はそれが妄想でなければ、たとえば神様仏様の二者択一なら目隠しで区別つく。おみくじも連続する。状況に応答してる。そもそも二世を除いて、人は死ぬほどの苦労をしなければ神仏を信仰しない。 商売繁盛の初詣も習俗でありそれはそれで切実な問題ではあるが、生きるために治癒をしなければならないといったレベルの切実な問題になると願望では許されない。霊感は自分の霊体で霊性を捉えたものなのでそう考えると五感よりも現実に近いかもしれないが、宗教信者には盲信が多く世間に嫌われているので以下、沈黙。

カインとアベル  理論と経験
 「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」…と、言うけれど、それは百年前までの話。21世紀になり天才とはなにであるのかの議論が進んできたが、それによると「ギフテッド」は自分の感じてきたものを大切にするとのこと。おそらくその格言が言ってる賢者といふのは秀才の事だろう。しかし秀才が好む人知は完璧なものだろうか。実験が抜けて、想定外がおきまくってる。想定外…なんて気楽な言葉だろう。理想的には歴史と経験の両方から学ぶことだと思う。最近は現象を仮想ばかりで語る屹度馬鹿と希望や仮想ばかりで語る宗教馬鹿が増えすぎてる。それはバーチャルに馴染みすぎた事や自己愛性の欺瞞を肯定されすぎた事の悪い側面だと思ふ。

sij2.gif/0.17KB/15*15 冷暖自知
 「比較宗教」とか「文化人類学」の示す「宗教」というのは伝統に基づく宗教のこと。その宗教はまた本来万民向けの学問ではない。人間のもっとも深いところを探る。目に見えるものを現実だとして内部にあるものを非現実だとするから我々はあまりに非現実的に生きている。でも考えてみよう。われわれ自身の中にないものは、われわれを興奮させない。一方で目に見えるものはすべて虚実。素粒子を議論する以前に可視光線の範囲内でしか掴めていないのだし。

性悪説について  無意識まで生きると分厚いハーモニーが奏でられる。
 宗教的な世界;集合的無意識には人間の本質的な美しさや植物に宿っていた頃や魚類や動物時代の記憶が眠っている。今―― こういう皮膜部を生きているとしたら、内層部を加えれば━━太い和音で生きられる。

タバコをやめりょう タバコをやめてみる
 壊疽った脳みそではこの世界つまんない。特にコーヒーとタバコ、酒とタバコはよくない組み合わせらしい。アルコールを飲むと「揮発した物質がアストラル領域の網状組織を焼いてしまい、チャクラの口が開いたままになって、不規則な力とか有害な作用が入ってくるのを防げなくなる。」(リードビーター)0.14KB/10*10 。医学的にもなんらかの根拠があるのだろう。煙草をやめたら次は断食に挑戦。断食をするとサーチュイン遺伝子が発動するらしい。

kis1.gif/0.18KB/15*15 宗教にも格式というものがある。
 カルトの同極にあるのが無神論で、概して宗教的な側面における感度や料簡が浅い事が多い。ともに有/無を離れてない。意識が羽ばたいてない。学歴は知恵で宗教は智慧。宗教が学歴と違うのは好きなものを選べるところ。

kei6.gif/0.17KB/15*15 まがいもんの宗教が多い。
 新興宗教や自己啓発セミナーのほとんどは霊障団体。ご都合主義で、純粋な人を騙す(教える側にも自覚がなく結果的に騙している)ようにできている。信者は純粋でも、信仰されているものはえげつない。なんか背気が変だな、と思ったら、なまじ優しさを見せないこと。程度の低いものほどしつこく図々しいもので、アストラル体までありがたく乗っ取ってくる。
 また、参詣者が多い~社仏閣は人の想念で汚れてると言われるが、参詣者が多い分だけまつりごとや供養が行われている~社仏閣なら良い。伊勢~宮は年に2千回のまつりごとをしている。要は最大多数の最大幸福。運や縁が悪く誰かの負の想念を受けて帰ることもある。(観光地は人の想念で汚れたままのところが多い。屋久島は自然の浄化作用が勝るがチェスキークルムロフの教会は自分は負けた)。

 霊気の匂い
 やばい臭気が発せられているものを平気で学ぼうとする人がいる。ゴキブリは、1匹いたら100匹いると思え。


− 信仰について −

Q:仏教に信じなければ罰があたるとかいう教義はあるか
A:信じないのには無限の理由があって 罰せられるのにも無限の理由がある。
うちの寺のお庫裏さまは地蔵様に水をばしゃばしゃかけていて、「水をかけるのはいけないようですよ」と言われたときに怒って「暑いから水をかけたんじゃ。罰が当たるなら当たってもいいわ。」と言ったようだ。
罰が下るか否かは良識に従う。法則のすべては良識に従う。
内性のあやふやな人間は自分の良識に従っていない。罰が当たるからなんだというのだろう。呪縛になるのなら倫理はいらない。〔ドンジュアン&スガナレル
でも結論いうと罰は下さないらしい。気の短い眷属がやることはあるかもしれないけど。

完成した宗教とはやってはいけないことを煽るのではなくするとよいことを実践してゆくもの。
論文と同じく結論ありきで進められる理性があり、方向性だけ導いてやれば、相手はおのずとそうなってゆく。しかし人は否定されることをもっとも嫌うもので、初めに否定されればもう導けない。「謙虚でない人は仏がいることがわからないんだねぇ」などと言っていてはならない。そもそもその発言は傲慢さからくるものであるが。

また、信仰の段階に至っても、反動形成を生じさせていてはならない。
陰徳(陰ながらの善行における積徳)にしても、徳を積むことを目的にやっていては虚しい。陰ながらの行いを神は見ていてくださる・・・それは確かであっても、自発的でないその行いを見て神は何を思うんだらうか。また信仰は自然ではないもの[強迫観念]になったとたんに、マイナスの効果[タブーなど]を生み出す。それでは己の霊性を汚す働きをすることにもなる。

なぜ人は信仰するのか。ワットヤイチャイモンコンの本堂にはアユタヤの人が沢山たむろしているが、ワットヤイチャイモンコンの本尊はパワフルだからだろう。居心地がよく、引き寄せられるかのように集まってる。タイではご利益のないお寺はあっさりと見捨てられ、廃墟になっているところも多いが、その点はドライなものだと思う。
霊気は精神作用する〔霊的エネルゲイア〕。霊気は神仏あるいは悪魔の外延。核となるものの外側に浮遊しているもの。信仰とは一般的にいうところの洗脳がすべてではない。(それが「宗教」なら)。
急ぎ足の結論の裏にプロパガンダありきでわかりやすいものほど疑わしい。信仰とはなにかについて普遍たる素振りで語りかける毀損趣味は、常に信仰の内側にある霊感という事実を度外視して他者に共通する外面に、その願望を投影することによって定義を進めたがるね。同調する者はその次元にとどまる。