人もし我に従い来らんと思わば 己を捨て己が十字架を負いて我に従え 己が生命を救わんと思うものはこれを失い 我がために己が生命を失うものはこれを得べし 人、全世界をうくとも 己が生命を損せばなんの益あらん …とキリストが求めている事ほど高次でなくとも 権力を求めていても権力は得られないし 人を従えようとしていても人は従わない 怨敵を屈服させようとしていても怨敵は屈服しない 芸術を作ろうとしているうちは芸術は生まれないし 哲学を創作しようとしているうちの哲学には真価がない 言いふらすところにまことの神は降りてこない 粗野なる探究心で何かを求めても 精妙なるものはなにひとつ得られてはいない 宗教をやると人は、人の道から外れるか神の道を歩むか どちらかに別れる パワースポットに行き、神の力を得て、なにを思うか 「私は神を知った」 「神は自分を選ばれた」 「あの日精霊が降りてきた話」 「こんな清らかなパワーをこんな僕に」 「○○寺ではお徳を感じられました」 「神様仏様はありがたいです」 先生が曰く、その後、霊性が伸びるかどうかは 信仰とか心の在り方に拠るところが大きいらしい 「私は神を知った」⇒あなたはまだ知らない 「神は自分を選ばれた」⇒有害な教祖様に 「あの日精霊が降りてきた話」⇒ブログに書く たぶんこうなる 禅寺では禅の修業に入る前の段取りで 門下生が悟りに触れた折に思い上がらないよう 教育という名のスパルタをして我をへし折る 人は勘違いをしやすい 本当にたいしたことのない人間ほど どうでもいいことを自慢する そこの段階で進歩が止まっている それまでの人物なのだろう それでも人の道から逸れてないだけ、まだマシである 宗教をやると、その初禅の段取りを踏んでないと 人の道から逸れてゆく |