− 神が死んだらどうなるか −


「穢れた霊は、人から出て行くと砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからず、それで出てきた我が家に戻ろうと言う。戻ってみると家は掃除されていて整えられていた。そこで出かけていき、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで住み着く。そうなるとその人の状態は前よりも悪くなる。」(マタイによる福音書12章43節〜45節)

「人の疑念が、真理によって解決されると、一旦は疑念は晴れる。しかし、真理によって自我が否定されるため、心が不安定になった彼は、真理を否定するために、更なる疑念を生じさせる。」という解釈ならばどれほど安心できるだろうか。

疑念ぐらい、、。聖書が深層の世界にすっぽりと入ってくるものだということを知らなければよかった。透明な水ほど濁りやすい。
だれかこれほどの懊悩の世界を経てきた人間はいるのか
不幸を纏っている人間は幸せだ。なんて矛盾でしょう我欲の強い人間は!神の愛を、見返りを求めない、本質的な親の愛を感得し人に流そうとする人は僕が苦労したり幸薄そうでいると悲しむから、情が啓発されておらず幸薄な人間の前でだけため息を深くつくことにしよう。なるべく見下していることを感じさせずに、彼らの次元に相関した深度のためいきを。僕は迫害を受けるべくして生まれてきた、前世のうちに悪との密約を結んだ僕に幸せは許されていない、カルマは知能や身体を凌駕する、不幸な内容をまさに今そこにいるかのような底辺めいた位置から低いトーンで語ればそれは不幸自慢に聞こえることだろう、なんという内的な矛盾を引き起こしす形相のだろうカリスマった人間は!!

…運命が先に来ることもある。交通事故で家族すべてを無くし孤児院に引き渡された人がいたとしよう。そこで虐待され運よくその人は遺伝的に優れた系統で、そんな高度さに触れたことすらない孤児院の連中にむりやり姦通させられ運悪くできちゃった結婚するも虐待する親になってしまう。その人はあとから運悪く気づくが、本当は自分の相続できる財産は地廻運よくも一生をたやすく生きられるぐらいだったようだ。だからこそ偽装工作にも精が入りだまし取られたものは取り返せない、、火灰運悪く毒蛾の結晶体みたいな人間が、運悪くいたのだ…・ 自分の孤児院から最悪な結婚生活に至る人生まで、もう取り返しがつかない、、。ある日さらに決定的な思いつきをしてしまう、だまし取ったその親族は交通事故のまえに家にきた時はいつもより精神を集中しているようだった。風脈運が悪くそのままさまざまなストレスが募り脳みそに運悪く亀裂が入って精神が破綻してカルト水自殺。й

子どもの愛とは親から受けた愛そのもの。親の愛に打算が含まれた分子どもの愛には打算が含まれる。そんな君は人を怨みの炎で焼いてしまうがいい。でも君には才能がない。知能が発達していない。かわいそうだからひとつヒントを与えよう。天才詐欺師になるためには、まず自己欺瞞で自分自身が善人にならなければならない。宗教の勧誘ではない、安心したまへ、君が本質的に善になることはない。匂いを隠すためだ。君のように生い立ちも卑しく知能も発達せず顔つきも浅はかな君のサガは悪を本能的に憧れているね、人の尊敬よりも人を手中にとる血の過程を愉しむハイエナなのだ。善人になりきっているうちは善人たる発想で物を話すようになる、「ああ、こんな美しい発想を嘘でない口調で話すことができるなら安心だわん」みたいな反応を生み出させることができれば、もう一人前だ。素質は醜い癖に美しいと自己欺瞞(詐欺としての自己実現よりも自分は美しいと思いたい願望によるものが一般的だが)で善人として通っている偽物の善人は実際に周りにいくらでもいる。都合の悪いことを聞かれても自分はあっち系の人なのでいつもおかしなこと考えて宙に舞ってるのよ、と(口では言ってはならない)理解してない視線をぼーっと空に向けたままでいろ。つぎに唐突もない純粋な応答をしてやればもう、相手は安心した猫のように腹を向けてしまうことだろう。言っておくがこれは君にしかできない業だ。家柄がよく人々に愛されそれに伴い知能が発達しIQは集団の頂点、それに付随して顔つきも気高く気立てもよい。そんな人間とは種族の違う、少しボケた知性と顔つきだからこそ、可能なのだ。我はサタンではない。あんな幼稚な世界の悪霊ども、相手ではない。奴等は人の心をスペクトルから読み取れるというだけだ、でもそんな芸当も下級の人間である君には無理だから、いざカリスマ的信頼を得ようものなら善人になりきるしか道はないんだな。信じればいい。我を信じれば君の法界悋気を刺激する本物の善人どもから奪ったお金がそこにざーっくざっく。(合意の上での寄贈です)。よっ天才詐欺師。サタンすら恐れる極悪道!がんばってくれたまへ。我は極度に冷ややかな憐憫を以って迎えるよ。かわいそう、と。 なんて言ってるのはダレだ

й死にたいなんて思うのは人間ぐらいなものでそれは自然性や神の摂理に背くが、自然性をかけ離れた集団に混じっていると死にたくなるのも仕方ない。もともと詩や音楽や神や倫理などの数学的に調和した世界に生きている人ほど不協和を目にするものだ。それにしてもクラブミュージックやる奴ってどんな動機でやってるんでしょう。自分はマジメには生きない享楽主義だと正当化するがその享楽を辿ると享楽している自分ってこんなにイケテネ??って自己顕示的な享楽に辿り着く。誂え物の振る舞いは空虚で、音楽は自己表現のための媒体。
手段ではなく、音楽そのものの表現を目指す作曲家に至ってはその思想は旋律に出てくる。国家に抑え付けられると旋律は激しさを帯びる。ショスタコやヒンデミットを見ればわかる。環境が酷しいと音楽は内奥に至る。シベリウスやベートーベンを見ればわかる。知能が進化しすぎるとモーツアルトになる。皮膜部の領域で奏でられたイージーゴーイングな音楽なんて歴史には残らない。つまらない、つまらなすぎる、つまらな馬鹿すぎる。宗教家になろうとした宗教家は世の85%を占める。自分語りは得意だが宗教は完成していない。負け犬に限って相手を頭でっかちだからそんなに偏屈なのだと批判して馬鹿であることを誇る。しかしその割に人のすることにはあれこれ口出しをして堂々巡りさせるのはなぜだろう。知ることができないからだ。意識が届かない。また、馬鹿の脳みそは解体すると簡単すぎるから意味深にするしかない。馬鹿は足踏みを発展と取り違え、卑屈さはヒスを起こさせる。領域を超えた部分までは見えない。

冷凍庫に入れておいた二週間前のさんまを食べたら頭が風邪を引いたようにウイルスっぽく覆われ視界が濁った。捨てた。

ディストピアにディストピアを重ねた。もう神は僕を見捨てているだろう・・・


もどる  ぽよぽよ ざうるす