a man of religion c'est moi
−第一感情で過ごす−


霊性が変われば考えは変わる。その次元に留まっていると同じことをぶり返す。霊性が上がらなければニルヴァーナのような静寂は理解のできないこと。過激な論調を穏やかにしろといわれても霊性の低いうちは無理なこと。ひそかに霊性を上げてやるのが霊性の高い人のやりかた。でも人間一人にできることは限られているので、ほんとうは自分ぐらいは自分でどうにかして欲しい。

時間こそは 最もユニークで乏しい資源
これを有効に管理しなければ ほかのどんなものも管理されない

余計な心配が足を引っ張り、おせっかいが不幸に縛り付けるためにしばしば為されるのと同様に、霊性の低い者の祈りは環境汚染になる。あまり意味がない。
霊性が追いついていないことをすると偽善とかになる。その人なりがちょうどいい。


霊的なことを肯定していると霊的思考に埋没しやすい。
霊は人を迷わせる。信じれば思い込みを疑いにくくなる。
世の中には偶然はないといえど、必然に縛り付けられていてはならない。
宗教的立場においては、偶然は存在しない。偶然とは必然の断片であると。人間の脳では断片としてしか認識できないから確率論とか偶然とせざるをえないだとか。しかしないことをあるとしていては真実が見えてこない。真実は真実、創作は創作。霊に観念を奪われていれば、その不毛な論議に埋没しやすい。
無霊魂説はやっぱり気高い。
ゼロになるからだが耳をすませる


有無を離るとのべたもーうー ♫ฺ
極端な有/無への囚われから離れる。
いる/いない、現場か/理論か

タバコ・・・禁煙と喫煙からはなれませう。
欲望・・・沸き起こらないぐらいに。


我々は神にも手を差し伸べられているゆえに悪魔にも引き寄せられる。
人間は善⇔悪を行き来している。アプラクサスのように善悪の混合体。

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地平線の彼方まで根拠を追求する人間ほど、
本を読んでいないらしい

おそらく人我執



ニュートラルの視点に立ちたい…たとえば少年を美しいと思う。彼らは男の子であって女の子のようだ。いや有無を離れている。性別を離れている。
少年を美しいと思う。ハンス・ギーベンラート、ヘルマン・ヘッセの書く少年が好きだ。車輪の下の第一章を読み終えると背景で音楽が流れていた。


Le Soleilla Luneder Monddie Sonne..
すべての人間は宗教的あるいは性的な思い込みの中に趣味や倫理を押し付けて生きている。
主観と客観の中間なんてものはないから、神は主観的意識を肯定した先にいるという分析自体は人間的客観である。


(´・∀・`)へーそうなんだー

たとえばこの顔文字は日本人と思える。でもフランス人ならフランス人、カナダ人ならカナダ人、ナイジェリア人ならナイジェリア人に思うはずだ。
主観は人格神というものを産み出す。いやそんな有り体の懐疑論はくどませる。主観が産み出すのならそれは自分自身の投影、夢、ロールシャッハだ。いやそれもどうでもいい。このマウスの追跡の輪のように夜中の霊障にて目を覚ましたときに数学的動きが浮かぶなら、呪術全書に示されるコインシデンスのように、遠隔気功の気のように、かの姿に同調したものだろう。


Dark Matte..
素粒子の世界はオカルトだ。僕は人がオカルトとして手易しく片付けたがるその世界に、最大の興味を置いている。懐疑論に鸚鵡返しするようだが、現実を疑うというのは実際大切だ。懐疑論の果てに神がいるといってもいい。・・・ダニューバーにもわかりえない世界

                 

ミクロの世界は果てしない。そこを一つ一つつついていけばより普遍的で自然であったはずの見地を逸するようになる。ああではないだろうかこうではなかったろうか。ソナタ形式がなぜソナタ形式なのか、調性とは一体何のことだったのだろうか。わからなくなってゆく。
真実は無限にある。あるいはないか。

やがてモデルチェンジを重ねるごとに、普遍性が無個性を強調した強烈な個性となって感じられるようになってゆく。
熱すぎず寒すぎず、薄すぎず濃すぎず、あらゆるソースに対応できる。
空気感もあり解像力もある。それでいてわりと疲れない。
そんな普遍性を求めて理詰めで開発された割には「可も不可もなく」というようなもので、魅力的な面も出さない=味気ないものという印象。人間の浅知恵程度では、ミニチュアのようなものから現実的なものを引き出すことは困難なことだ。優れた哲学者は哲学という枠組みに甘んじていない。文体の限界に気づいている。

シェーンベルクは十二音技法で物質的に構成された高度な塊を産み出したがそうではなくその逆サイドから形式の限界に気づく人もいる。普遍性ではなく音楽性としての苦悩は晩年のマーラーに見出される。

交響曲第十番がそういうところ最高だけど本人とら苦悩懊悩でたまったもんじゃないだろう。
傍から見てる聴衆はただその産物を享受するのみ。
マーラーの霊がもし、「交響曲って形式はな、一つの多元的宇宙で形式に過ぎずあるからので一層音楽の音楽たるものが不可解な恐怖がによって盗んだバイクで走りだすしかないんだぜ!!俺らは!!」とか訴えかけてきても、聴衆は逃げ惑うしかない。

でも訴えかけてくることはない。その音楽を絶對音楽と理解すればマーラーの偉大さを理解していることになるから。物質的な次元ではない。苦しみは肉体的な次元のものだが、偉大な産物への共鳴はもっと上の段階でのもの。

例外を「常識」にすれば迷信が生まれる。
でも迷信は「迷い」の類のものではあるが、関係のない人からみれば享楽的なもの。迷信に、「お前はこの理由(ワケ)がわからんのか」と迫られても一般的な人は逃げるしかない。でも迫られることはない。どっちみち関係ないからだ。

神は自分の為せる業・為したことを訴えかけてはこない。
自然に沸き起こる感謝や尊敬は、その偉大さを認めることになっている。

信仰をすれば護っていただける。
かの役割を我がために担ってくれる。
一途に信仰するところに信頼関係が生まれる。
一神教というのは在り方としては好ましい。
ただしそれは純粋に神と自己との関係において。

・神とは宇宙の法則そのものである(一神)
・神とは高次で崇高な霊的存在である(八百万)
どれか一つのみを有、他をなしとするのでは不全になる
法則としての神は原始的な神:造化三神(うつし身をもたない)
人格神:イザナギ・イザナミあたりから
ある神話的な人格神が湧泉から実際入って来たとき、完全な自然神だと思ったけど...

魂の定義とは本来曖昧なものである。
生命にたいして定義をかますこと自体が冒涜にもなるというもの。
人間くさいバイアスがかかってくる。自然にわかってくるものが自然なもの。
ゆえに惟神は優れた神への人間態度に思う。



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