− 現実に帰り −


人間は幾何学模様のように単純にはいかない。人間の精神は複雑で、複雑な人ほど数学的調和を維持するのに困難である。どんな優れた板であっても善い人間だけが集まるなんて物理的に無理がある。最近はみんな飽きたのか熱気は落ち着いてきたが、匿名の世界を見る限り人間界は思った以上にすさんでいるようで、人間本性から遠ざかっているように感じた。

嘲笑や差別はしない人はしないものだが、する人がいるからいけない。自分がその対象になるのは、肉体的に言えば、飲酒運転の被害者はとばっちりでしかないだろう。また、それらのおぞましい部分と同調するからいけない。高笑いとは乖離である。乖離したものは偽物である。

身分不相応にカリスマっている奴は、自己の内面に入り込んでくる者を拒む。このこうしておきたい自己は、遅れるほどに固まり脱皮するのに難しくなる。『髪結いの亭主』の最後のほうにもあったけど、いかにも天国のようでも年寄りの世界は凄まじい。と映るようだ。また肉体で隠せない霊性の世界はお互いの全てが見えてしまう。匿名で自分は隠せても自分自身の霊性は隠せない。

なりきりも散見される。学者なりきりとか。何かを演じる場合、自然でない脳みその使い方をしたり心のあり方をゆがませていることも多々あり、自分から離れすぎてしまう。でもインスピを汲み取り、そこに或る生命を生み出すことに歓びを感じる精神は美しい。ぽよぽよざうるす1号だぁと遊ぶ子供にその原点が見出されるように、それは人間の本質的なところで、やがては民族的無意識に介入するルートである。
屹度馬鹿よ、
キャラというものが創造や捏造であるかぎり、キャラの多様性には創造性があらわれる。創造でないのならそれが脱することのできない自我になろう。自由に演じたりすることのできるしがらみの無さになりたければ火の鳥のように踊り狂って自我から外に出るんだな。