見ざる
聞かざる
言わざる

携帯で変換してみると…
ネクロフォビア=死体恐怖症、死亡恐怖症。詩編ゼオカルト
帰りの風 コギトが流れてた
ボロディンのダッタン人の踊り  あの箇所
歌詞が コギトに聞こえた


7つの詩篇




僕は足より、腕の方を愛している。

腕に別れを告げねばならないとしたら辛い。

足は陰で支えていてくれた。

でも手は毎日目の前にいる。

だるまさんの境地は僕にはとうてい味わえない。

祈ることすらできない。

舌をかみ切らなければ死ねない。





深層の世界を啓発され神的な存在との繋がりを知り

世界行路を成就するため犠牲の道に進み、我々の倫理を司る。

クリスチャンの一部は霊的に崇高である。

彼らを殺すのは最大の罪である。

しかしクリスチャンは自分なぞ死んでもよいと思っている。

よいと思っている。・・・。

・・・だからといってでも殺してはならない。

殺した後、そのクリスチャンは夢に出てくる。

広大な愛でもってそのカルマを癒してくれていることだろう。

かといってでもやはり殺してはならない。





人間は、自殺のメッカには行ってはならない。





自分に執着のある人は、死んでも自分を離れないから、火葬場で焼かれるときに灼熱の地獄にきたことを錯覚する




レンブルドは木を描いた。無意識の調和体である自然に不協和を嗅ぎつけ、表現していた。空間的なズレ、幹のズレ、反対に生えた葉っぱや奇形児みたいなおできなど。不協和を協和させて神性を宿しているのか、失敗して悪魔の植物になってるのかわからなかった。





前歯を意識するようにすると顎に力が入らずに済む。





ある卑屈な会合にいくと、自分の守護霊がそこに集まる寂しい霊と交歓してしまう。ので、あまり好きにはなれない。卑屈ではないけど合コンの場合も、負の烙印を背負った人間(オカルトな意味ではなく)と関係を結んでしまうことがある。僕は独善的かな。僕の霊を腐してまで人を癒したいとは思わない。ああいう場に出席する人間はたいてい(抽象的に言って)霊的な感性が低くそれは低級な御霊に憑かれているからであって親が不倫をしていた、愛情が不足していた(ルサンチ)、先祖を辿ると変な宗教をやっていた、など背景にあるものがあるのだからといって頽廃した時代にはカルトが蔓延するのも頷ける。よく誂えられて綺麗そうな場でも、枯渇から闇雲に求めてきてるところがある。と言うと被害妄想だと反応するだろうけど、保身的な人間の被害妄想とはちょっと種類が違うかな・・・ だって自己に降りかかる不浄を寄せ付けないための保身術なんだし?言い訳でもないしほんとうだよ?もっと語ってみるとわかるよ。あるカルト教会に教えられたことを隣で盗み聞きしている女の人はだって図星だよ?実際に口に『援助交際がはびこってるけど10代の少女たちに降りてるのは慰安婦の霊かな』ビク!!
ビク!! 今風気取った隣の若い女の人やっぱり聞いていたのかすごく大きな反応をした。なんで慰安婦と言ビク!!!!
その肩がすごい擬態語を立てていたのが空気を媒体にその反応が文字を媒体にする小説のように伝わビクッ!!って面白いからどうかもっと話をさせてくださ慰安婦の霊が舞い降ビクッ!!