オーディオの音について【1】


オーディオのふたつの性向

レコーディングエンジニアは、ホールトーンに融解する以前の分解能・解像度、ニアフィールドで再現されるアンビエント、ステレオ再生における立体性など、録音独自の音楽世界観があることを見出した。それを再現できるものをhigh-end-audioと名づけた。メロウな音のアルゴリズムは人間の素性においては子供的な純度の高い曖昧性と似ている。シンプルなうえにいろんなところが均等に動く。云わば、自然に調和した思考、知的解像度の抽象性、自我それ自体は自己主張を持っておらず音楽のソースに対して柔軟に対応する塑性などなど。
アキュレートな音のアルゴリズムは、理路整然としたニューロンの配向性による意思の確実性に相関している。モニタリングリスニングに向くが愛玩のようにこちらから音楽を愛でるようなリスニングには向かない傾向。製造費安く抑えて作ることができるけれど、人間は機械的キャパの問題に直面すると鼓膜・耳小骨という高度なデバイスに対して限界感を抱いてしまう。


Je pense..
弾力感のある音...、冷えると硬くなり熱を加えると軟化するような感触..。亜鉛鉄板、モッツァレラチーズ、チューインガム、低反発枕、EXGEL。反対に熱を加えても弾力を増さないような硬さ。鉄板、木材、氷、など。鉄琴、木管楽器、グラスに響く氷の音など、硬い材質はドンシャリな音を出すけれど、軟らかい物質は塑性に準じたメロートーン。でも音の種類は無限大。オーディオの音や電子音は可塑性樹脂のように成型加工で好きに作れる。弾力のあるドンシャリも硬質な矩形波のメロートーンも。
一般に国産のアンプはリニアリティ高くで
アキュレートで、海外のアンプは分子がさまざまな絡み方をしていて高分子。オーディオの曖昧さは悪く言うとHiFi性の低さにもよる。シンプルさに基づくピュアリティは、Hifiとは異なるらしい(オーヲタの言葉の定義が)。モニター系統のオーディオのように各楽音のバランスがよく、かつ音のサンプル数が多くなければ、スタジオで見えてなかった成分がレコードに乗っかったりしてしまう。だからHifiは一般的にはモニター系に使われる。ホームオーディオはモニター系のように硬い音ではないけれど、出ない楽音がそれに比べて多くなる反面シンプルさに基づくエアー感や空気感・ホールトーンというものがスポイルされずに出てきやすい。それらは楽音の骨格を満たす。しかし骨格の再現がモッツァレラチーズのようにしっかりしていない場合、ぼやけた音に聞こえる。でもそれは決して解像度が低いわけではない。音のは多い。数は少ないけど。あとモニター系は偶数倍音(音のきつさ)はあまり気にしない。心地よさは家で聴く人にあればいい。アナログディスクや管球アンプの音に共通するのはLUXMANのブースでの受け売りだけど「奇数倍音」の少なさ。聴感ベクトルで快さのスカラーが高い。そのかわり共通して音のバランスは悪い。帯域的なものと、Dレンジ的なもの(小さい音が比較的大きく出てきてしまう)。



LUXMAN M-7i


アナログの素性


五感で得られたものは仮の姿。音は媒質の粗密波でそれは鼓膜をふるわせて耳小骨を介し増幅されて内耳に伝えられる。聴神経という有髄神経を伝い、脳に運ばれる、その音は媒質自体ではない(音そのものを聴くことはできない)。味覚と嗅覚は分子や原子の素材が直接
デバイスに触れている分直接的だがやはり脳に運搬された情報はそれ自体ではない。直接的← 味覚≒嗅覚≒触覚≦聴覚≒視覚 →間接的
オーディオではパルス性電流の感覚デバイスに直接作用することは今のところ無理なので(骨伝導イヤホンというのはあるけれど)、アナログのまま現象化させる。

アナログは人間の純粋な基底部を表現しているようだ。
プレイステーションで音楽を再生すると、デジタル臭さとはどんなものなのか身をもって体験できる。やたらと苦しく耳に対して不協和な音でこれはバッドトリップを誘う。音楽は僕と表面的にしか付き合っていなかった。スピーカーとは実のところ人格の破綻した存在で、磁気歪や固有共振によって互いの波音が負けず嫌いに反発しあっているのが僕には見えた。また、これは現実には存在するものだろうか、、担任の先生が元スーパーヤンキーだとか、修験行者が第三の目を嘯くかのような、…過剰な付帯音は偽装だ。演奏家は自分でもうまく脱皮できないうちに殻は変色し粘着性を帯び、その糸を引いた隙間から一層目のイエローな輝きを光らせている、、精神はいびつな回転を為しそれらは相容れない色のマーブル調に反応しあっている、、、早く解放されたい、 しかしそこで反逆し、これに耐えなければならない。充分に耐え偲んだあと手持ちのCD再生機で再生すればなんてことだ、性能の素晴らしさ、ハーモニーの数学的調和を涙とともに知ることができる。
カーステではFMが心地いい。脳の中に残留するストレスが少ない。あと電源ノイズで1000Hz付近のキンキンする歪みがあまり出てこない。ラジオでも元をたどればデジタルを再生している。ラジオ局のDACの方がはるかに音がよいのだろう。さらにアナログの方が音が良いのかもしれない。トライオードのブースで比較試聴していたけれどレコードの音は優れたCD再生機よりも音が豊かに聞こえる。音が太いというのか。不協和な感覚を物理的に引き起こさないのがアナログのよいところだ。人為的な要素がまるで感じられない…Christの心情のように。ある日東京のオーディオ店のスペンドール試聴会の空間では僕はYHVHを称えるのではなく、詐欺師について考えていた。瞞着はどれほど数学的に調和していようがそのアルゴリズムにおいて感性的な不協和が付き纏う。手料理は手が込んでるほどおいしいが手の込んだような手料理はおいしくない。泣こうとして泣くのではなく自然に込み上げる涙が美しい。目に見える音は悪くとも、五感に馴染む音は本物である。{…大学時代にあまりいい人間関係に恵まれなかった。サークルの先輩の中に変なのがいて、「桑ちゃんはすぐキレるしキモイと言われるけど、異常ではないやん。でも山川さんは病気... 」と、少ししか会ったことない人にも勘づかれていた。性格や顔や能力や性指向が逸脱していて生理的に拒絶反応される人は、その人自身がとくに異常者というわけではない。相手側の守備範囲の狭さ・脳みそのキャパシティの問題であって(ヘイトスピーチと子供時代のIQの関係)。サイコパスもそう反応するし。だが、本当に異常な人のことは神様や神懸かりの名曲と同じく、常人にとってはなにがどう異常なのか表現が難しくなる。魔に憑かれているのか、その人自身が魔なのか、高みに至りすぎていて言い表せない。僕はもし人間関係に恵まれていれば「その人人格異常者だから」と言われてこれほど引きずることはなかったろう。だからこのようなことが書けるわけだから一長一短。サイコパスでない限り人は反省する。当時とは変わっていると信じたい}。
我輩はデジタル派だけど、どれだけ本格的にしても、機械的に模造されたものは模造されたものなのだという意識はある。デジタルはインスタントとまではいかなくとも、アナログは手料理のように身体が温まる。神社に行って神様の稜威を受けると清々しくなる。
宇宙は一定の法則によって成り立っているけれど、その宇宙にたいし性相から調和していなければ"discordant"ということになる。アナログのノイズは自然な特性で"さわり"にもなるけど、デジタルには誤謬がつきもので、心の奥底に不協和を生み出している。その中にあっては倍音は宇宙にまでは広がっていく事はない。そこまでいうと言い過ぎだけど、特にデジタルアンプにおいては、その音は力感が凄まじく、皮相部はリアルだけど、そこにある音楽はまるで模倣されているかのようで、生でふれあう動物的なあたたかみが抜けていると思ってしまう(モーダル間現象で)。musicaのブースによるとデジタルは微小音が途中でそぎ落とされるらしい。ヒット開発研究所の特許はトランジスタやD級アンプのその欠点を補う回路で、真空管のように引きずるところもなく、デジタルのように硬質でもなく、非常に豊かな音だった。


スピーカーのエージングについて

エージングとはオーディオメーカーが保証する性能を発揮するよう慣らし運転することである。ある一定期間を過ぎたら劣化か
同化になる。
スピーカーは新品で買った場合、振動板がまだ動いてないかのように音が堅いケースがある。SP端子の片chを逆相に繋げモノラルの音源で(キャンセリング効果)外出中に近所迷惑にならない音量で鳴らしっぱなしにするという手法があるが、ネットワーク系のハイパスフィルターが逆につなぐと機能しないため、壊れる危険性あり。ヘッドフォンならば近所迷惑を気にせず、一日中リピート再生する事が出来るけど、地道にエージングを楽しむしかない。
エージングの効果を確かめるならイヤホンが最適だ(安いからスペアが買える)。スペアと比べてぼやけた。・・・。しかしオーディオとは場合によってはこのあと何十年もの付き合いをするもの。無理なことせず、変化に気づけたらおもしろいな程度でいい気もする。スピーカーは生きているのではないかと思える体験をすることもある。以下はあるオーディオファイルの書き込み。
「レイフスのヘクラ(火山)と言う作品がありまして、この曲をダイナミックに再生出来ると、装置自慢する友人がおります。しかし、その友人の装置でシベリウスの弦楽セレナードを掛けると、ツルンとした楽器の質感が感じられない・・・・何と表現すれば良いのか、そうそう、測定器で聴くような感じなのです。
何故なのでしょうか、オーディオ装置はそのオーナーの気質を表すと言います。(特にSPは・・・)
長年、ハードなソースで鍛えられたSPは、与えられた音は全て完璧に再生する。その間にはSPが持っているキャラクターなんて押し殺されるのです。反対に、長年、音楽ソースで鍛えられたSPは、SPが持っているキャラクターが加わり、楽器の荒さなども表現出来るのです。まあ、この辺は30余年間ピュアーオーディオをやってきて、肌で感じる事なのですが・・・・」

この方はオーディオが好き以上に音楽愛好家なので少し感情が入っていますが、それはさておき、趣味やイデオロギーは音に顕れるみたいで面白い。振動板は極限にまで軽いものを理想としているので反比例的に充分な強度の持てなかったものは湿度や熱のエネルギーに侵食されやすい。経年変化したDIATONE のB4Cドームは爆音で鳴らしたら割れてしまうようだ。それほどまでに繊細なスピーカー。薄いし動的なものだから、波形が繊細か丸いか、振幅が小さいか大きいかなどなどソースに感応しやすい。長年電子音など鳴らされてきたスピーカーがクラシックを鳴らせないというのは微小音に応答しにくくなってしまったからだろう。またツイーターなんかは煙草にも長年にわたって影響を受けそうだ。振動板だけでなくマグネットの電磁的形状の問題もあるかもしれない。ケーブルに電流を流していると流れが変わるし、鳴らしているとアンプがスピーカーの個性に次第に馴染むというガレージメーカーの設計者もいる。(このスピーカーの音の変化といふものには、もっと奥深い理由がある。たとえば飼い犬も飼い猫も飼い主に似ると言う。自分の家の犬猫でもそうだが5歳6歳になると前の犬猫と同じ性格になってくる。それは土地がそうさせているのである。同化現象。工場の跡地はたいてい汚染されていて土地を洗濯しないと人間は住めない。たんぽぽも咲かない。咲いても病んでいる。さらには土地には霊性;ヒッグス場がありお互いに影響しあう共存関係にある。その土地には産土の神様もいれば前の犬猫もまだいるのだろう。神は人に罪を与えないが、人間が少しずつ薄くなってきたのは大地自然や自然性を疎かにしてきた結末かもしれない。晩婚化もあるけど理想的な人がいないから晩婚化するという側面もありそう)。
 


理論は単純。現象は複雑怪奇

なにごとも理論化されると単純になる。現象を、要約したらどうなっているかを理解するのが科学であるから。あくまで仮想であり、現象そのものを満たすわけではない。現象は複雑怪奇である。科学を応用して現象に適用されたものは現象のn分の1になる。ヴァイオリンは擦弦楽器でソロでも繊細で複雑な波形を持つのに、シンフォニックに折畳まれるとどんなに分解能の高いマイク〜スピーカーであっても対応しきれない。だから実売100万以内のシステムでは、音素がうまく融解し音楽的に調和した聴こえ方をするものが交響楽にとっては好ましいケースが多い。これこそが耳で作るという部分。微塵にも汚れた響きを出さない演奏家達の音楽魂とは食い違うけれど、ミドルエンドまでのオーディオでは管弦楽は快く聴こうというより苦しくなく聴きたいという欲求が先立つ。AURA、CREEK、BOW、QUADや300B等の管球アンプ、Spendor、HARBETH、LS3/5AゆかりのBBCモニター系、Vienna Acoustics、DALIのTOWER、TANNOYのデュアルコンセントリック型、往年のONKYOなど。これらを組み合わせるとゆるゆるになるというケースもあるけれど。



人間と同じ

オーディオの音の素性は人間の素性に関連している。技術者の理想がその音に顯現している。スピーカーとアンプの相性は親と子、教師と生徒、太陽と自然などの関係に通じるものがある。お互いを尊重しあう関係はシナジー効果を生み出す。StingrayはNautilusを節度ある解像度で、Nautilusは Stingray によって節度ある分解能を保つ。管理教育のような管理で圧縮してバランスよく鳴らし込もうとしていてはスピーカーのミュージカリティ側がスポイルされる
。子供はナイーブで大人の力でいびつに歪んでしまうことがある。逆に甘いとゆるゆるにもなるけれど。
生まれつきに目に見えない力によって定められている領域は、本人の力でどうにかなる問題ではないが、生物は互いのためになることが力を生みだすということをやがて知るので、相応しい対を探し始める。遺伝子のパズルを解き、位相のプレーンに揃う正確な対を見つけ出せば、癖や好き嫌いやいびつさのない健やかな音楽が生まれるはず。オーディオ自身も自分の手ではどうにもならないので、よい持ち主のもとにいき、よりよく活かしてもらえることを待ちわびている。そこから生まれてくる音はその子供の心。
…そう想定していけばいずれイデア的なオーディオが組めるはず。[以上空論]





宿命的な欠点HOME音についてA